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「兄貴...久しぶりだのう... 」252空の杉山上飛曹の弟さんが大多喜町で発見された零戦と対面したそうです

今年の1月22日に千葉県大多喜町で発見された終戦の日に第252航空隊の千葉県茂原基地から出撃して大多喜町の上空で鬼畜米軍の艦載機を邀撃して無念にも撃墜された帝国海軍第252航空隊所属の零式艦上戦闘機が発見された訳です。

当時の記録などを読みますと海軍航空隊はB29に対する邀撃戦闘に全力出撃する為に醜敵米軍の艦載戦闘機に対しては邀撃戦闘機の機数を割けない苦しい台所事情の為に厚木の302空などでも艦載機の邀撃出動には2機から4機くらいしか零戦を出動させられなかったみたいです。

厚木の302空は対B29邀撃戦闘用の局地戦闘機(迎撃戦闘機)の雷電を持っていましたから他の航空隊よりも艦載機のグラマンに対する邀撃戦闘に零戦を使用する余裕があったので艦載機に対する邀撃戦闘に8機を出撃させたりした事もあったみたいですけどそれでも通常は4機くらいしか出せなかったそうです。

撃墜王の赤松中尉などは運動性能が悪い為に対戦闘機戦闘は不可能と言われていた雷電で出撃してグラマンを2機撃墜していますけど「奇襲を掛けて2機撃墜したあとは数の差で袋叩きになるからグラマンに追い回されて逃げるだけだった」と手記の中で書いておられます。

252空の場合は使用機材が零戦だけで対爆撃機用の邀撃戦闘機雷電を持ってませんでしたから艦載機に対する邀撃戦闘の場合は2機くらいしか出動させられなかったのではないかと思います。

陸軍航空隊は当時『決号作戦』に備えて対戦闘機戦闘で撃墜されて機数を減らす事を恐れてB29が来ないで艦載機だけの場合は邀撃戦闘を禁止しました。
(現場の部隊では我慢出来ずに独断で出撃して戦闘を行なった部隊もありましたけど命令違反の罪で戦隊長が処分されたりしました)

敵の大群に対して2機くらいで邀撃に行く訳ですから搭乗員の人は毎回の邀撃戦闘が生還を期し難い1種の特攻みたいなものでしたし航空隊の上層部にしても機数を減らしたくないから出来たら艦載機の邀撃戦闘をしないで飛行機を温存したかった訳です。

しかし鬼畜民族のアメリカは日本人を鏖(みなごろし)にする気でしたから連日のようにグラマンやコルセアなどの海軍の艦載戦闘機やP51などの陸軍航空隊の戦闘機が民間人を狙って機銃掃射して殺戮する目的で民間人虐殺の為に来襲して来ましたから民間人を護る為に零戦を邀撃出動させたんです。

遊び半分に『猛獣狩りごっこ』みたいな感じで鬼畜のアメ公どもは日本人の非戦闘員の女や子どもや老人を機銃掃射して毎日殺戮しに戦闘機で来やがったんです。

石原慎太郎前都知事も国民學校の生徒だった子どもの時に田んぼの畦道の所で鬼畜アメ公のP51戦闘機の機銃掃射を受けて(もう駄目だ、殺される)と観念した時に日の丸の戦闘機が2機現れて2対2の空中戦で米軍の戦闘機を1機を射撃で撃墜してもう1機を日本の戦闘機が体当たりして撃墜してくれて石原少年の命を救けてくれたと言う話をしています。

石原少年を救けたのはたぶん成増基地の陸軍飛行47戦隊の4式戦闘機『疾風』の搭乗員の人たちだったと思われます。

千葉県睦沢町の民族歴史博物館の人たちが252空の戦闘行動調書などを調べて調査したところに拠りますと無念の敗戦の日と成りました大日本帝国最後の年、昭和20年の8月15日に茂原基地から邀撃出動して未帰還戦死となった搭乗員は杉山光平上飛曹と増岡寅雄一飛曹の2人と言う事が判明していますから本年1月22日に発見された零戦を操縦していたのはこのお2人のうちのどちらかと言う事に成る訳です。

増岡さんのご遺族の方は消息が分からないと新聞に書いてありましたから1月22日に252空の零戦を遂に発見しました幸治昌秀さんに撃墜された零戦の機体の捜索を頼んでいたご遺族と言うのは杉山光平上飛曹の御身内の方だと思われます。

開戦以来のベテラン搭乗員が大量に戦死した為にそれまで少数精鋭主義だった予科練が搭乗員を大量養成する事にして戦争中期に甲種飛行予科練習生(甲飛と略称)と言う制度を作ったのでそれまでの予科練の出身者を『乙飛』と呼んで一般の水兵から転科して搭乗員に成った人を『丙飛』と呼ぶように成った訳です。

甲飛(甲種飛行予科練習生)の場合は採用基準が中等學校四年生の何学期修了だったか忘れましたけど当時としては高学歴の中等學校の四年まで進んだ人たちでしたから海軍も優遇して乙飛や丙飛の人たちよりも昇進が早くて十七志(昭和17年志願兵)の甲飛10期生の人たちが昭和20年に上飛曹の階級でした。

乙飛や丙飛の人たちは昇進が遅かったから昭和20年の時点で上飛曹の人たちは十ニ志(昭和12年志願兵)あるいは十三志(昭和13年志願兵)くらいの期別の人たちだと思われます。

何故甲飛の昇進が速かったかと言いますと海軍航空隊は陸軍の航空隊と違って海の上を飛んで行く航空隊ですから航法計算が必須科目だった訳です。

当時はコンピューターなどが無い時代でしたから自動航法装置などがありませんから搭乗員が自分で航法計算をしなければならなかった訳です。

複雑な数学の計算をしなければ成らないので中等學校で数学を學んで基礎が出来てる甲種予科練の人たちは海軍の方も航法計算とか数学などの座学の時間を短縮して早く戦場に送れるメリットがありましたから甲飛の人たちの昇進を早くして(乙飛の人たちよりは)優遇した訳です。

杉山上飛曹が甲飛出身者なのか予科練の本家本流である乙飛の出身者だったのか良く分からないんですけど252空はソロモン航空戦でラバウルからガダルカナルに空襲に行ったあとマーシャル、ギルバート、マキン、タラワと戦った歴戦の部隊ですからもし乙飛の十ニ志クラスの人でしたらそれらの戦いを生き延びた大変なベテラン搭乗員な訳です。

仮に杉山さんが甲飛の搭乗員だったとしても十七志の甲飛10期生くらいだったらすでに実戦の洗礼を受けてかなりの回数の空戦経験があった人だと思います。

海軍の『上等兵曹』と言う階級は陸軍で言えば『曹長』なんです。
海軍の『二等兵曹』が陸軍の『伍長』と同じで『一等兵曹』が陸軍の『軍曹』と同じ階級なんです。

ですから杉山さんが乙飛だったか甲飛だったかは分かりませんけどいずれにしてもかなりの実戦経験がある人でそう簡単には撃墜される人では無いんですけど20機以上40機くらいいる敵の編隊に日本の飛行機がたった2機で殴り込んだ訳ですから多勢に無勢で杉山さんも増岡さんも2人ともやられてしまったんだと思います。

恐らく杉山さんたちが乗っていた零戦は52型だと思います。
零戦の最終生産型の52型は初期型の21型と比べますと武装が強化されて速度が少し上がったんですけど機体が重く成って格闘戦性能は21型よりも悪く成ってしまいました。

零戦21型よりも重くて旋回性能が悪い52型だった為に杉山さんは(敵の射弾を)躱しきれないでやられたのではないかと思います。

新聞報道に拠りますと杉山上飛曹の弟さんで現在静岡県掛川市に住んでいる杉山栄作さん(91歳)が家族3人と共に2月23日に零戦が装備してました九九式20粍機関砲(九九式20粍2号銃)と榮21型発動機が発見された千葉県大多喜町の発掘現場を慰霊の為に訪れたとの事です。

杉山栄作さんは「たとえ兄が乗った飛行機じゃなくても兄と一緒の部隊で親しかった戦友の人が乗って戦死した飛行機だから御参りしたい」と言う気持ちで静岡県から駆けつけたそうです。

初めに睦沢町民俗歴史博物館を訪れて発見された20粍機関砲と榮発動機を見て「よくぞ残ってくれてました....見れて本当に良かったです...」と杉山栄作さんは涙ぐんで言ったそうです。

そのあとに大多喜町の発掘現場を訪れた栄作さんは「兄貴、久しぶりだのう、逢えて良かった、成仏してくれよ」と言って兄の光平さんが乗っていた飛行機か戦友の人が乗っていた飛行機かは分かりませんけども日本の為に戦って民間人を護ろうとして不利な態勢からの戦闘をして戦死した搭乗員の人のご冥福を祈ったとの事です。

大多喜町の人たちが8月15日に大多喜町上空の空中戦で戦死した搭乗員の人のお墓を戦後に建てて長い間、お墓を護って来たそうなんですけど睦沢町立民俗歴史博物館の人の案内で栄作さんはこのお墓にも御参りして「町の人たちがお墓を作ってくださって本当にありがたい事です。兄も成仏出来ます。本当にありがとうございました」と言っておられたそうです。

杉山さん、増岡さん、日本のためにありがとうございました。

※写真はネットの人からお借りしました。

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