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日本人のコロナ自粛期間中の正しい過ごし方は『紫電改の六機』を正座して読んで泣く!と言う事ではないか?と僕は思うんです

4月15日は旧日本海軍の撃墜王だった杉田庄一上飛曹が戦死した日です。

醜敵アメリカ軍の物量に押されて敗色濃厚となった昭和19年12月に四国松山に開隊した海軍第三四三航空隊は『源田サーカス』と呼ばれたかつての名戦闘機乗りの源田実大佐が帝国海軍最強の戦闘機隊を作る為に各航空隊の生き残りの撃墜王たちを集めて作った部隊で当時の海軍最後の最強戦闘機隊でした。

昭和20年3月19日に我が帝国海軍の聯合艦隊の本拠地である広島県の呉軍港を空襲に来た米機動部隊の100数十機に及ぶ艦載機群を三個飛行隊の全力出撃54機で迎え撃った三四三空の紫電改戦闘機隊は我が方の被撃墜16機の尊い犠牲と引き換えに醜敵鬼畜のアメリカ軍のF4U艦戦、F6F艦戦およびSB2C艦爆など52機を撃墜しました。

その後に沖縄に出撃する特攻隊の作戦を助ける為に三四三航空隊は九州鹿児島県の鹿屋基地に進出しましたが4月15日に警報の遅れから醜敵鬼畜米軍の艦載機に飛行場を空襲されてしまいました。

闘魂の人杉田庄一上飛曹はグラマンの機銃掃射を受けて紫電改が被弾炎上するのを黙って見てられずに敵の空襲下を強引に離陸しましたが離陸直後の速度と揚力が足りない所をグラマンに撃たれて撃墜されてしまいました。
杉田庄一上飛曹(新潟県出身)の個人撃墜数は公認70機でした。
杉田上飛曹は戦死後、2階級特進して海軍少尉に成りました。

僕は帝国陸軍の方が好きで海軍さんはあまり好きじゃ無いんですけど、源田実さん(広島県呉市出身)が指揮した紫電改部隊の三四三航空隊・剣部隊の奮戦には心を動かされる物があります。

我が陸軍航空隊の誇る高速戦闘機の四式戦闘機疾風とか格闘戦に強かったキ100(五式戦闘機)に比べますと海軍の紫電21型はかなり性能が落ちるんですけど、源田司令が各航空隊から腕利きの撃墜王をかき集めて作った部隊だけに搭乗員の技量で機材の性能不足を補って敗戦間近の当時、各地で海軍航空隊が目を覆いたくなるような惨敗を喫していた時期に唯一醜敵アメリカ軍に痛撃を与えました。

紫電21型(通称紫電改)は旧式化した零戦と比べたら多少速度が出てましたけど同じ発動機を使っていながら我が陸軍の四式戦闘機が時速630キロ出るのに対して紫電21型は我が陸軍の五式戦闘機と大して変わらない時速590キロのスピードしか出ませんでした。

五式戦闘機の最高速度は580キロでしたけど格闘戦性能が抜群に良かった為に五式戦闘機は日本の陸海軍機の中で米軍のP51と互角に戦える唯一の戦闘機でした。

しかし三四三空の精鋭の人たちは卓越した空戦技術と火のような闘魂で押し寄せる米軍に立ち向かいました。

碇義朗さんの『紫電改の六機』や豊田穣さんの『蒼空の器』とか三四三空剣会様が刊行してくださいました『三四三空隊誌』などをお読みになっているマニアの人達には釈迦に説法で分かり切った事でしょうけど、僕のブログはパンピー(※一般ピープル)の人相手に書いてますのでご容赦ください。

僕的には、この手の本を読んだ事が無い一般の人に入門編としてお勧めするのは『紫電改の六機』です。

単行本の帯の宣伝文の所に『大戦末期、松山343空の戦いを軸に、本土防空の尖兵となって散った6人の若者たちの姿を活写し、その真情を赤裸々に綴った感動のノンフィクション!』と書いてありますけど、まさにその通りで、何度読んでも涙が止まらなくなります。
素晴らしい本です。

少しネタバレに成っちゃいますけど、昭和53年(1978年)に愛媛県の久良湾で紫電改が引き揚げられたんです。

この紫電改に乗っていて戦死された搭乗員の人は誰か?と言う事をノンフィクション作家の碇義朗氏が調査した訳です。

三四三航空隊の戦闘行動調書を調べた碇氏は墜落した場所から、その方面の戦闘空域で空中戦が行われた日を突き止める訳です。

大日本帝国最後の年、昭和20年の終戦の1ヶ月前の7月24日と言う事がわかりました。

この頃には精鋭と言われた三四三航空隊も敵の物量に押されて戦死者が相次いで、矢尽き刀折れた状態で稼働機数も3個飛行隊合わせて21機にまで減ってしまいました。

鷲渕孝隊長の右腕とも言われた天誅組(戦闘407飛行隊)の隊長林喜重大尉も4月に既に戦死していました。

7月24日の戦闘でも延べ500機近い敵の大群に僅か21機の紫電改で立ち向かった訳ですが、戦闘701飛行隊(維新隊)の隊長鷲渕孝大尉や列機の初島二郎上飛曹など6人の搭乗員の方が戦死しました。

引き揚げられた紫電改はこの6人のうちの誰の飛行機だったのか?と言う謎解きの部分と、この6人の戦死者のご遺族の方や学校時代のお友だちの人を碇義朗さんが訪ねてこの人たちがどう言う人だったのか?と言う事を聴いて6人の人生を描いた本です。

僕はこの6人の中で初島二郎さんと言う人に心を動かされます。
鷲渕隊長を守りきれなかった自責の念で殉死したのではないか?と言う書き方を碇さんはしておられました。

被弾して海面スレスレをよろよろと飛ぶ鷲渕隊長機に寄り添って飛ぶ初島上飛曹機が味方機に目撃されてる事から見て敬愛する鷲渕隊長機が海に突っ込んだ時に初島上飛曹も殉死する為に操縦桿を前に倒して海に突っ込んだのではないか?と当時から隊員の人たちに思われていたそうです。

源田実さんは3人の飛行隊長の事を『智将の鷲渕、仁将の林、勇将の菅野』と書いておられましたけど僕は林さんが1番好きです。

林さんの人物像については分隊長の市村五郎さんは「リベラルな人格者だった」と言ってます。

分隊士だった本田実さんは「林さんは温情がある人で素晴らしい隊長でした、隊員みんなに好かれて慕われていました」と言ってます

伊奈重頼上飛曹は「温厚で口数は少ないけど人間的に立派な人でした」と評しています。

青柳茂一飛曹は「部下思いで、腕も良くて度胸も良い人で、この隊長のためならと思える人でした。階級で威張らない人で我々下士官搭乗員は兄貴みたいに思っていました」と言っています。

部下に戦死者が出ると自室で1人泣きして「済まぬ、済まぬ」と死んだ部下に謝るような人で部下思いで責任感の強い人だったらしいです。

林さんは死んだ部下に対して(前途有為の若者を死なせてしまった、申し訳無い、済まない)と思い続けて、日本軍の邀撃戦闘機隊がB29の空襲から国民を護りきれない事に対して(空襲で逃げ惑う国民に済まない、申し訳無い)と自分を責めて思い詰めていたらしいんです。

林さんが戦死したのはB29に対する邀撃戦闘でしたが林大尉はB29を1機撃墜したあと次のB29に対して執拗に食い下がって攻撃し続けて刺し違える形で撃墜されたそうです。

林喜重さんは神奈川県鎌倉市出身の人で海軍兵学校69期生です。
地上にいる時は温厚で無口な青年で誰もこの人が戦闘機隊の隊長だとは気が付かないような人だったそうです。

大変に部下思いの人だったので生き残った当時の隊員の人たちが靖国神社にお参りに行ったあと「林少佐のお墓参りに行こう」と言って必ず鎌倉までお墓参りに行くそうです。
単に上官と部下と言う事では無くて林さんの人格と言うか人間性が素晴らしい人だったから亡くなったあとも多くの人に慕われているんだと思います。

これ以上書くとネタバレに成っちゃうのでこの辺にしておきますけどコロナ騒ぎで外出自粛に成ってる今の時期にパチンコに行ったり歌舞伎町の裏カジノとかに行っちゃう人は論外ですけど他の人はテレビを観たりするんでしょうけど下らないテレビを観るのも気晴らしにはいいでしょうけど、たまにはこう言う心が豊かに成るような良い書物を読むのも良いのでは無いでせうかって思います。  

でもどうなんですかね?

今の酷い日本を見たら鷲渕隊長は「仕方ないなあ」って苦笑いして菅野隊長は「何やってんだ?子孫の奴らは?」って怒って、林隊長は「何の為に俺たちは戦ったんだ?」って言って泣いちゃうみたいな気がします。

写真(3)👉智将、鷲渕孝大尉
写真(4)👉初島二郎上飛曹
写真(6)👉部下思いの仁将、林喜重大尉

※写真はネットの人からお借りしました。

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