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1式戦隼について... (6)

戦史研究家の梅本弘史先生の調査に拠りますと、昭和16年12月8日のマレー作戦開始(則ち太平洋戦争開戦)から17年3月9日の蘭印作戦終了までの期間に59戦隊及び64戦隊の1式戦(通称『隼』)は連合軍機61機を撃墜しています。

50戦隊が30機、64戦隊が27機、両戦隊協同撃墜が4機との事です。
61機中43機が戦闘機です。
日本側の損害は(両戦隊で)16機、戦死11名、5名生還と成っています。

加藤建夫戦隊長と言う人は上司として、リーダーとして人間として非常に立派な方で今の日本の会社の経営者とか部下を持つ中間管理職の人に見習って貰いたい人ですけど、1番キツイ事を自分が引き受けて1日に2回、3回と出動する場合に部下はローテーションで休ませても指揮官の自分は休まずに指揮官先頭で全部の作戦に出動しています。

P51との空戦で片足切断の重傷を負いながらも屈せず内地帰還後に義足を装着して、陸軍戦闘機隊の総本山、三重県明野の戦闘機隊で大隊長として五式戦闘機に乗って終戦まで戦い抜いた檜與平さんもご著書の中で「我々20歳代の若者でも1回の作戦出動で疲れてフラフラに成るのに、当時40歳代の加藤戦隊長は指揮官としての責任感で全部の攻撃に参加する為に狭くて窮屈な隼の座席に座って離陸して行きました」
と書いておられます。

加藤さんは戦果を正確に報告しないと味方の作戦を誤らすと考えて確認者がいる場合の完全撃墜と思われる墜ち方以外の場合は撃破扱いにして戦果の判定を厳しくした人でしたから64戦隊の戦果は少なく報告されましたけど、他の戦隊長だったら撃墜と判定するような敵機の墜落の仕方がかなりありましたから実際の64戦隊の撃墜数はもっと多かったはずだと思われます。

自分と同じ中隊で少年飛行兵学校の1年先輩の佐伯敦義軍曹は運動神経、反射神経に優れていて既に何機も敵機を撃墜していて我が檜中隊でも撃墜王の1人でした。

パレンバン航空撃滅戦の時に佐伯軍曹は1日に敵機4機を撃墜して僕などは(さすが佐伯さんだ)と思ったものですが中隊長の檜さんが加藤戦隊長に戦果報告した時に慎重な加藤戦隊長は「佐伯の4機目の戦果は撃墜でなくて撃破かも知れん、佐伯を呼べ」と言って加藤戦隊長自ら佐伯軍曹に敵機の火の吹き方とかを質問して佐伯軍曹も正直に答えてましたら「その火の吹き方だったら急降下の風圧で火を消して助かった可能性もあるなあ、撃破にしよう。佐伯軍曹は3機撃墜、1機撃破」と言って数を減らして上級部隊の飛行師団に報告しました。

加藤部隊では戦果の水増し報告を決してしないで少なめに報告するのが伝統に成ってましたから隊員の人たちも自分の手柄を争う事もなくて戦果を減らされる事に慣れていましたし加藤さんの人格を我々部隊員は尊敬して付いて行ってましたから文句を言う人も居なかったんです。

飛行64戦隊は蘭印作戦の時にスマトラ及びジャワでオランダ軍戦闘機隊と戦いましたが昭和17年の3月にビルマに進出して以後は終戦までイギリス軍及びアメリカ軍の戦闘機及び爆撃機と激しい空中戦を戦いました。

例えば雨期を除く大戦中期の昭和17年9月9日から18年5月21日までのビルマ方面の飛行64戦隊及び飛行50戦隊の隼戦闘機隊は連合軍機62機(戦闘機44機、爆撃機17機、偵察機1機)を撃墜して味方の1式戦の損害は36機でした。

撃墜した爆撃機は米軍のB24が5機、B25が3機に英軍のブレニム爆撃機が5機に、ウエリントンが2機、ハドソンが1機とボーファイターが1機でした。

味方の隼の被害については対戦闘機戦闘でやられた数よりも爆撃機の防御砲火及び敵の戦車や装甲車に対して地上銃撃をした際に対空砲火でやられた人の方が多かったみたいです。

弱武装の隼で爆撃機との戦闘を行なう場合は命捨て身で突っ込んで行かないとなりませんから被害が多かった訳です。

加藤戦隊長の戦死も英軍のブレニム爆撃機を攻撃した際に防御砲火でやられたものです。

火を吹いた愛機隼の状況を見て基地まで還れないと判断した加藤戦隊長は(もはやこれまで)と思って部下たちに翼を振って決別の合図をしてベンガル湾の海に突っ込んで自爆しました。

加藤戦隊長亡きあとも飛行64戦隊は加藤さんが指導徹底した相互支援の編隊空戦法で団結して敵と戦いました。

記録を見ますと昭和18年7月2日から19年の7月30日までにビルマの1式戦闘機隊は撃墜135機(戦闘機70機、爆撃機32機、偵察機など33機)の戦果に対して我が方の1式戦の損害は83機でした。

撃墜した敵戦闘機の内容は下記のように成っています。
英軍のハリケーン戦闘機24機、スピットファイア戦闘機18機に米軍のP51ムスタング15機、P38ライトニングが8機、カーチスP40戦闘機が4機とP47サンダーボルト重戦闘機が1機でした。

中国の昆明への空襲などを含めると、この時期のビルマ航空戦で日本軍の1式戦闘機隼の戦闘機隊は連合軍機を142機以上撃墜して連合軍は隼を127機撃墜しました。

日本軍劣勢で各地で日本陸海軍航空隊が無残に破れていた時期にビルマの1式戦闘機隊は連合軍の新鋭戦闘機の大群に対して互角以上の戦いをした訳です。

梅本弘史先生は「隼の戦果と損害の数字は私が確認出来たものだけを記したので実際にはもっと多いはずである。昭和19年後半から終戦まで日本陸海軍航空隊が各地で目を覆いたくなるような惨敗を喫していた時にビルマ方面では最後まで1式戦闘機隼が信じられないくらいの健闘をしていた事は事実です」

と言う事をご著書の『第二次世界大戦の隼のエース』の後書きに書いておられます。

飛行64戦隊の最終戦果は撃墜283機、撃破144機(敵飛行場銃撃による地上撃破を含む)で、損害は3人の戦隊長を含めて戦死した味方搭乗員160余名です。

♫七度重なる感状の勲の陰に涙あり、ああ、今は亡き武士(もののふ)の笑って散ったその心
...であります。

1式戦隼は良く戦いました。
海軍の零戦は『零戦燃ゆ』と言う言葉が悲劇の戦闘機と言う事を象徴していますが大戦後半には米軍機に歯が立たなくなって各地で火達磨に成って零戦がやられましたけど旋回性能と突っ込みの加速が良くて防弾装備がしっかりしていた1式戦隼は粘り強く戦い抜きました。

加藤戦隊長が指導した部隊の団結による相互支援編隊空戦の集団戦法とは『毛利元就公の3本の矢』の精神です。
1人1人の力は弱くても団結して互いに補って助け合う事でチームとして戦うと言う日本人の考え方です。

戦後復興した日本企業が海外進出して行く時にこの考え方で日本企業は外国製品と戦って日本の高度成長を成し遂げました。

飛行64戦隊及び飛行50戦隊の戦死した搭乗員及び整備員の方たちのご冥福を心からお祈り申しあげます。

飛行64戦隊陸軍軍曹原田正義

『1式戦隼について』(完)

※この文章は僕の背後霊の原田正義さんとの会話を元にして僕が代筆したものです。

※隼のプラモデルを作る時に掛けるBGMは皆さんも『加藤隼戦闘隊』の歌をお掛けに成っていると思いますが僕的には桂館杏ノ助さんの歌唱版の『加藤隼戦闘隊』が1番好きです😆

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